2015年10月24日土曜日

11. おわりに


    柴山景綱郡長の福島での業績は多々あるが、特に身近にあった件について調査
   したが、古い時代の事であり記録が無く、人々の記憶や言い伝えなども語れる人
   も少なくなりはっきりしない事が多かった。記録は当時の状況を再現すると言わ
   れている。また、記録は松川事件(昭和24年8月17日)における「諏訪メモ」の
   のように裁判で判決が逆転したほど重要な証拠となる。従って記録の発掘が必要
   だと痛切に感じた。

    西根上堰完成の翌年に、上堰の取入口の穴原橋の側に建立された古河善兵衛の
   頌徳碑は、佐藤新右衛門の死に不審を持ち、西根の農民は悲しみ、憤り二つに折
   って打ち捨てた。
    「大正15年に、福島中学校(現福島高等学校)の堀江繁太郎教諭と湯野村の岸
   波倍家氏の懸命の捜索によって、穴原の農家の土留の石垣に使用されていた、寛
   永の碑が発見され、西根神社の境内に移された」という情報を得た。この件につ
   いては従来は「明治になって篤志家が捜し回り、石垣の下積にされている碑を見
   つけ出し、それを移して建てた」と言われていた。地域の人々の史跡に対する関
   心のたまものと思い感銘した。

    柴山郡長の時代には、国家財政は乏しいため、公共施設の建設は基本的には受
   益者負担が原則であった。どこでも地元の有力者や農民などによる拠出金と自普
   請(労役)であった。半ば強制的な寄付で郡民や郡役所職員などから徴収された。
   金銭以外にも材料などの現物の提供も当然あったであろう。
    従って住民には不平不満も多々あったので、その矛先は三島県令や柴山郡長に
   向けられた。ただし、三島県令は、福島県に着くや或る者に「予は、政府より三
   つの内命を受けて赴任した。即ち、自由党の撲滅、帝政党の援助、通路の開削等
   である」と言っていた。従って快刀乱麻を断つの速度を以て施政の凡てを決行し、
   若しこれに反対する者あれば忽ちに高圧を加え、遂には自己の思うがままに行動
   した。
    また、三島県令は「知己を百年の後に俟つ」が好きだったという。自分の仕事
   の真価は、百年後の人がわかってくれるということだった。
    今日の福島地域の道路のうち、三島県令時代に開かれたものが幹線になってい
   ることを振り返るとき、その先見の明を思わざるを得ないが、その事の進め方の
   強引さはまさに官吏の専制ぶりであった。また、人によっては、寧ろ三島県令よ
   りも柴山郡長のほうが専制であると称せられた。しかし、「河野広中と柴山景綱
   のすれ違いの交友」などを読むと、共にお互いの立場を理解し合い、「昨日の敵
   は今日の友」と両者とも人格者と思わざるを得ない。柴山景綱は人の難儀を見て
   は、財を投じてけちではなかった。郷里鹿児島県に奨学金を送り、また在京中、
   和田倉門の火災に際して罹災者救済の義援金を差し出したり、かくれた篤行もあ
   ったと伝えられている。
    私の人生もそう長くないので、長年の夢だった柴山郡長の事歴をまとめること
   に専念した。ご一読いただければ幸いです。
                            (平成28年7月10日)





   
   

2 件のコメント:

  1. 福島の蓬莱町在住の者です。出身は愛知県なのですが、仕事で福島に来て40年以上になります。余所者意識が抜けきらなかったのですが、皮肉なことに停年を前にして起こったフクシマ原発事故をきっかけに、遅まきながら「福島人宣言」をしました。以後は「幕末明治の日本の人間」のことを勉強しながら、足元の歴史に目が向くようになりました。文知摺観音で見た旧薩摩藩士「柴山影綱」の名前を知って気にかかっていたのですが、つい先日はまた別の関心から出かけた西根神社で遭遇することになり、ますます興味を掻き立てられこのブログに行き当たりました。さらに孫がこの4月に清水小学校に入学したこともあって、小学校の校庭に清水跡が残っているお写真を拝見して、たまたま今度の土曜日(13日)に運動会があるということで、孫にも誘われましたので、この目で見てこようと思っています。文字通り「足元の歴史を知る」上で、格好の材料と場所も紹介していただきました。これから他の所も歩いてみたいと思います。大変参考になりました。ありがとうございました。
    SK生

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  2. SK68様
    はじめまして。嬉しいコメントをありがとうございます。
    父が柴山景綱に興味を持って調べまとめたものをこちらのブログにしました。SK68様のコメントをさっそく父に伝えたところ、父も大変喜んでおりました。「柴山景綱」に興味を持つ方々にこのブログが少しでもお役に立てたら幸いです。史跡を巡る際に道順などわかりづらいところがございましたら、お気軽にお問い合わせくださいませ。
     お孫さんが清水小ということですが、父は清水地区在住です。これも何かのご縁かもしれませんね。よろしければまた遊びにいらしてくださいね♪

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