2015年11月3日火曜日

1. はじめに

   私は、平成14年5月に南沢又ふくし会の副会長に推され、総務の仕事に携わりま
  した。ふくし会の事業の一端として、ひとり暮らしの高齢者の「ふれあい小旅行」を
  実施していました。福島市周辺の名所、史跡を見学して、旅館で昼食会・入浴・休息
  の日帰りの行事でした。「しおり」を作成し、見学者に地域の史跡に関心を持っても
  らい、更に記憶に留めてもらいたいと思い、いろいろ資料を集めました。その折りに
  たびたび「郡長 柴山景綱」の名前を見付けました。

   たとえば、明治12年に保原町に設置された伊達郡役所について、明治16年2月
  1日 、柴山景綱が伊達郡長の命を拝するや、桑折はやや西部に偏在するが、国道線路
  に沿い郡内第一の都会であり、他日鉄道敷設の暁には停車場も置くべき地と予想し、
  郡民の利便性があることを認め、三島県令に具申し県令もこれを受け入れ、伊達郡役
  所を桑折町に新築した。
   また、江戸時代初期に伊達郡西根郷の田畑開発を目ざして、西根堰を開削した古河
  善兵衛、佐藤新右衛門の二人の武士の功績をたたえ、万世の鏡と言うべきであり神社
  に祀るべきとして、神社の創建を進言し官許を得て、豪壮な社殿が建立されたとあり
  ます。

   私は郡長 柴山景綱という明治初期の行政官として、文化財の保護顕彰に尽力した人
  物であったが、あまりに世間に知られていないので、広く世に知らしめたいと思い、
  まず経歴を調べてみることに着手しました。ところが、なかなか資料に出くわしませ
  んでした。郡長と言えば福島県に関係すると思い、福島県歴史資料館を訪れて調査の
  の意向を話したところ、『福島県政治史(上巻)諸根樟一他共著』(復刻版)を見せ
  てくれました。これにより大変なヒントを掴み、福島県立図書館には「柴山景綱事歴」
  (史談会速記録)などの図書があるのがわかりました。

   当時「鬼県令」と呼ばれた三島通庸の影に添うように、柴山景綱の名が出てきます
  が、それもそのはず両者は薩摩生まれで、三島通庸と柴山景綱は同じ年で幼い頃より
  無二の親友であった。そして、景綱の妹 和歌子は三島通庸の夫人で、景綱は三島通庸
  の義兄にあたることがわかりました。福島県内では、三島県令、柴山郡長についての
  評判はあまり良くなかった。先見の明はあったが、その事の進め方の強引さが専制ぶ
  りであったと言われていた。しかし、山形県、栃木県などでは評価が分かれていて、
  三島県令、柴山置賜郡長 両者ともに福島に転任にあたって、山形県に留まるよう住民
  から嘆願されていました。また、三島県令は栃木県では、三島神社まであり神様にな
  っています。

  「史談会速記録」とは次のように記されています。『そもそも君(柴山)と面談する
  と、いつも勤王、王政維新に功があった事だった。もとより疑う事はないが、君と
  志を同じくし、共に王事に忙しく働いた者は数十人、今や多くは重要な職についてい
  る。ひとり君は不幸にも病多くて辺地に療養した。故に世間ではその事歴を知る者は
  まれであり、君も年すでに63歳となった。もし一朝不慮の事があればその功績は、
  あとかたもなく消えてしまう事を親族、朋友がそれを惜しんだ。ある人がこれを聞い
  て、君についてその事実を問いただし、或は散乱した書類をとり集め、これをまとめ
  て冊子にした。これを名付けて「柴山景綱事歴」という』とあります。

   私は、郡長 柴山景綱の足跡をたどり、地区民の反応は如何ばかりであったか、文献
  の調査と現場を見学して検証してみることにしました。
   一番困ったことは、三島県令の顔写真は出回っていますが、福島県内で柴山郡長の顔
  写真や肖像画がありませんでした。どんなお顔か知りたかったのです。福島県立図書館
  でいろいろ調べてもらったら、東京上野の東京芸術大学の隣りにある黒田清輝記念室に
  あるとのことで、後日電話で尋ねたが「ない」との返事でした。とても残念に思い、福
  島市の市史編纂室を訪れましたが、顔写真や肖像画はありませんでした。
   ところが最近思いがけず身内の者から、遠く離れた三重県立美術館に所蔵されている
  との知らせがありました。事情を話したところ美術館のご好意で、柴山景綱さんの肖像
  画のコピーが送られてきました。本当に夢のようで感謝感激で一杯でした。



            三重県立美術館所蔵 『柴山景綱肖像画』




        

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