2015年10月27日火曜日

8. 「阿津賀志山古戦将士の碑」建碑の事


    源頼朝は宿敵の平家一門を西海の壇ノ浦に滅ぼし、武家の政権である鎌倉幕府を
   樹立した。この平家追討に大功をあげた弟の源義経は、兄の頼朝に疎まれ謀反人と
   して追捕を受ける身となった。頼朝は謀反人を口実に、奥羽二州の平定にあたった。
    文治5年(1189)7月17日、兵を三方面軍に分けられ、その勢力30万といわ
   れた。東山道を総大将の頼朝が指揮し、東海道を千葉常胤と八田知家、北陸道を比
   企能員と宇佐美実政がそれぞれ指揮し、北上を開始した。

    頼朝は先陣を畠山次郎重忠に申しつけ、7月19日に本隊が出発した。白河関に
   着いたのは、その月の29日、それから阿津賀志山の麓、国見駅に着いたのは8月
   7日であった。白河から国見までは100余km、この間6日を要していたが、途中
   で奥州軍の抵抗がなく、一兵も損ぜず信達平野に進出した。

 頼朝の遠征軍を迎え撃つ奥州軍には、
強固な陣地を構築する準備期間があった。
阿津賀志山の標高は289mと低いが、
福島盆地が前方に展望でき、みちのくの
奥へ旅する人は必ずこの地を通らなけれ
ばならなかったように、現在もまたこの
地は交通の要衝であり、東北本線、東北
新幹線、国道4号線、東北自動車道がす
べて束になって裾を通っている。
背後には宮城野があり軍事的にはこの上
ない重要拠点であった。       


    藤原勢は早くからここに目をつけ、阿津賀志山の中腹から西大枝の石田へ続く約3.2
   kmの薬研堀状の阿津賀志山防塁を構築した。藤原泰衡の異母兄にあたる藤原国衡を大
   将に、2万余騎が布陣した。藤原泰衡は仙台榴ヶ岡のあたり国分原の鞭楯に本陣を構え
   阿津賀志山は前進基地として要塞を構築した。信達盆地の南端である石那坂には砦を構
   えて第一の防御線とした。阿津賀志山の背後である刈田郡の白石付近にも城柵を造り、
   第三の城砦とし、さらに名取・広瀬の両河に大縄を張り、太平洋沿いに北上する東海道
   軍をくいとめる作戦を立て、ほかに出羽道より侵入する北陸軍に対する警備もたてた。
         本営の後方の栗原・三迫・黒岩口一帯に数千の兵を配置して予備軍とした。

    頼朝は先ず畠山重忠を召して策をさずけた。重忠は鎌倉進発に際し、予め予想される
   要塞攻撃のため80人の疋夫と、鋤、鍬を持参させた30人に命じ夜陰に乗じて土石を
   運び、奥州陣の前にある大堀を埋めさせ突破口を造らせた。翌日8月8日午前6時、頼
   朝は畠山次郎重忠をはじめ、小山七郎朝光・加藤次景廉・工藤小次郎行光・同三郎祐光
   等に命じて、昨夜造った突破口から金剛別当李綱が率いる数千騎の陣と矢合わせを行い、
   各軍波状攻撃を加え戦闘は午前10時で終わった。いわば小手調べであった。頼朝軍は
   意外に強固な奥州軍の陣営に驚いて兵を引いたのであった。
    8月9日の日中は両軍対峙して互いに隙をうかがった。夜になって軍議を催し、明朝
   払暁攻撃を命じた。


   8月10日、頼朝は夜明けを待って陣所の藤田宿をあとにし、大軍を率いて阿津賀志山
  を越え、阿津賀志楯の大木戸に攻め寄せ、総力をあげて猛攻撃を加えたが、奥州軍の守り
  は固く容易に敗北しそうになかった。前夜来、小山朝光の率いる宇都宮友綱の郎従記権守、
  波賀次郎大夫らの7名は、地元の安藤次を道案内として密かに藤田宿より出て出羽道を北
  に進み、鳥取越(小坂峠)から白石川沿いに進み、刈田郡小原山の間道を迂回して貝田峠
  に至った。姥神川沿いの険阻な坂道を下り、大木戸の背後にある国衡本営の後陣の山によ
  じ登り、時の声をあげ矢を放った。国衡の陣営は搦手よりの敵襲とあって大混乱に陥った。
  国衡の本陣は浮き足立ち、算を乱して敗走した。大木戸口で敵勢と激戦中の軍兵も後方で
  起きた本営の敗退が伝わると戦意を喪失し、多くの兵士達は逃亡や投降して、奥州軍は瓦
  解してしまった。頼朝軍は追撃戦に移り、出羽国に逃れようとする国衡に追いつき、畠山
  重忠の門客 大串次郎の手にかかり、あえない最期を遂げた。

   総大将藤原泰衡は慌てふためき、奥の方に逃亡してしまった。頼朝は8月22日の夕刻、
  平泉に到着した。泰衡は平泉の館に火を放って姿をくらましたが、9月3日、出羽国肥内
  郡で郎従 河田次郎の手で殺された。9月6日、河田次郎が泰衡の首を持参した。これを実
  検させた頼朝は、主人を討った罪を責めて次郎を斬罪に処した。奥州合戦は、平泉の藤原
  氏が滅びたというだけでなく、日本の歴史が古代から中世に転換する大きな節目となった。

   明治16年2月1日に柴山景綱は伊達郡長に任ぜられた。景綱は赴任するや度々阿津賀
  志山の激戦地を訪れたが、感ずるところがあって後に信夫郡書記 徳江末晴、藤田村戸長
  成沢英和、大木戸村の豪農 半沢与一郎等と協議して、阿津賀志山麓の合戦ゆかりの地に碑
  を建て、阿津賀志山合戦の七百年を記念し顕彰するとともに、戦没した鎌倉・奥州両軍将
  士への鎮魂の証しとした。時に明治18年6月であった。


『阿津賀志山故戦将士の碑』

1. 場 所 
   伊達郡国見町大木戸字経ヶ岡
    4号国道を国見から白石に向かい、
   右手に県北中学校を過ぎると、右手
   に大木戸小学校入り口の標識あるの
   で右折する。道路脇に車を置いて4
   号国道の歩道を白石方向に10m位行
   くと「厚樫山故戦将士碑(阿津賀志山
   故戦場碑)」の標識があるので、坂の
   小道を登るとすぐに石碑がある。





2. 碑の寸法

      台石(横2.2mx縦1mx高さ0.6m)
     の上に置かれ、高さ1.5mx横1.3mx
     厚さ0.6mの不整形な方柱である。



3. 碑 文
      上部に碑の篆額、その下に23行663
     字からなる碑文が彫られている。
      阿津賀志山合戦の経緯と陣没者の慰霊
     追悼を内容としたものである。
      この経ヶ岡は吾妻鏡によれば、福島盆
     地南口の石那坂の合戦で頼朝軍の常陸冠
     者為宗、同次郎為重兄弟が「庄司己下宗
     の者18人の首を獲て、阿津賀志山上の経
     ヶ岡に梟するなり」と記されている。
      国見町郷土史研究会の菊池俊雄氏によ
     れば「梟首刑は首を衆目にさらし、刑罰
     の威嚇的効果をねらったもので、山上に
     梟すことは意味がなく、むしろ人通りの
     多い街道沿いの経ヶ岡の地こそ適切であ
     ろう」と述べられている。

     
      また、「柴山景綱はこの他にも信夫郡の石那坂や文知摺の碑文を撰するなど、文化
     財の保護顕彰に尽力した。当時としては、奇特な行政官であったが、その人物につい
     てはあまり知られていないので紹介しておきたい」として『福島県史人物編』の柴山
     景綱の内容を紹介されている。
      文化財を保護するためには、まず文化財をよく理解することがたいせつであり、そ
     のためには説明板等の設置が必要であり、この「厚樫山故戦将士ノ碑」は、その先駆
     的な役割を果たしたものとして貴重なものであると称賛されている。

      参考文献
        1. 「柴山景綱事歴」 史談会速記録
        2. 「国見町史」 (1)通史
        3. 「国見町の文化財」 国見町教育委員会
        4. 「阿津賀志山防塁関係論集」 国見町教育委員会・国見町郷土史研究会
        5. 「全訳吾妻鏡」 2 新人物往来社
        6. 「福島県の合戦 (福島・伊達・二本松・安達編)」 いき出版   





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