2015年10月26日月曜日

9. 河野広中と柴山景綱のすれ違いの交友


    福島自由党本部無名館の急襲
    河野広中を捕らえに行った警吏は、警部長(県警本部長)代理の柴山景綱だった。
   柴山はかねて三島県令から、もし河野が捕縛の命に従わなかった場合は、「これを
   斬り棄てよ」と言われていたので、無名館に着くと河野を威嚇する態度に出たが、
   河野は従容自若として武士的態度で応じ、少しもこれに反抗する行動に出なかった
   ため、止むを得ず令状を示しこれを縛した。この逮捕劇には後日物語がある。単に
   河野広中を逮捕するばかりでなく、その後 河野と柴山のすれ違い交友もあった。
   「磐州伝」の中にある柴山景綱の記述である。おそらくこれは明治23年以後のこと
   であろう。
   
    「因みに記す。河野広中は凶徒聚集の罪をもって禁獄7年の刑に処せられ、在監
   中読書を研究し徳義を練習すると聞く。はじめて同氏の三島県令における肉を食う
   も猶飽きたらざるの仇敵なりしが、出獄の後、人に語って今より追想するに、「当
   時予等の所為あるいは過激に渉りし事尠なからざれば、三島の怒れるも故なきにあ
   らざりき、官吏たるもの須からく彼が如く果断を要すべし」と言えり。

    通庸の死後、明治23年庚寅夏、芝区三田四国町に大火あり、三島家の付近ことご
   とく延焼してはなはだ危うし、時に主人 弥太郎(通庸長男)は米国に留学し、家族
   おおむね大磯に遊ぶ。女児の当時住まいする者また皆学校に出て一人も家に在る者
   なかりき。
    しかるに従来敵視せし河野広中第一に来りて訪うと、景綱これを聞きその義に感
   服す。他日、三島家を代表して河野氏の門に至り、近火来訪の厚意を謝す。
    当時、河野を訪い時機あらば往事の談話せんと、考えたりしをたまたま不在なり
   し、よって名刺を投じて帰る。事後、河野また麻布の某所に転じしとき、景綱の門
   を訪ひ来るとき、景綱外出中でまた面会するを得ずはなはだ遺憾とす。
    ゆえに重ねて訪問せんと考えいたりしが、そのうちに伊勢(御料局技師)へ赴任
   する等、彼これ未だ志を達せず」と。
    往時、血と血で争った自由党員の巨魁と、これを逮捕に向かった当時の柴山景綱
   のすれ違いの交友も両者の人間の一面を伝えて興味深いものがある。これは三島通
   庸の死後である。

                 (『土木県令・三島通庸』  丸山光太郎著より)  
   







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