2015年10月30日金曜日

5. 「石那坂死戦将士碑」 建碑の事



   佐藤基治は、藤原秀衡、泰衡に使えた信夫の庄司であった。大鳥城を上飯坂村に築き、
  ここに居城した。佐藤家が信夫郡にやってきたのは、基治から五代前の佐藤師清が最初
  だった。源頼朝の旗揚げのときから60年前の保安元年のことだった。以来、佐藤家は
  徐々に力を蓄えてきた。特に、基治の代に至って姻戚関係を強くした。藤原秀衡のいと
  こにあたる乙和子を妻にし、そこにできた娘を秀衡の三男 忠衡に嫁にやった。こうして
  藤原秀衡と佐藤基治は一心同体ともいえる主従関係になったという。

   頼朝に無断で朝廷から位官を受けた義経が、奥州に落ちのびると藤原秀衡、泰衡はこ
  れをかくまった。頼朝は秀衡が亡くなると泰衡に、義経の身柄の引き渡しを求めた。泰
  衡は拒否するが、度重なる要求に屈して、衣川館に義経を急襲して殺害した。
   頼朝は、奥州を平定するために、28万余の兵を送り、三方面より平泉を挟み撃ちす
  る。佐藤基治は泰衡の将として叔父 河辺太郎高経や伊賀良目七郎高重らとともに一門の
  兵を率いて、石那坂(福島市平石)に砦を築き、阿武隈川の水を引き柵を作り、石弓を
  張り討手を待った。

   基治は七十余歳の老いの身でありながら、尚古武士の風格を失わず、一家総討死の覚
  悟を決め、砦の大将として東に西にかけめぐり、よく味方に下知して一歩もここを引か
  ず戦った。頼朝軍はどうしても前に進むことができないので困ってしまったが、やがて
  中央突破を無理とあきらめ、一部を西方に回すことになり、後に伊達氏を名乗る常陸入
  道念西(中村朝宗)が子息 常陸冠者 為宗・同次郎為重・同三郎資綱・同四郎為家等、
  ひそかに甲冑を秣の中に隠して、その背後、伊達郡澤原(現在の佐原)から奇襲するこ
  とにより、ようやく突破された。死闘は一日中続いた。頼朝軍の背後からの猛攻を防ぎ
  得ず、基治は麾下の信夫十八将ともども石那坂に討死の悲運を背負わなければならなか
  った。



   この合戦は「吾妻鏡」の8月8日の条に「基治以下18人の首を阿津賀志山上の経ヶ
  岡(国見町)にさらした」と記されている。
   この合戦で頼朝軍の中村朝宗は、恩賞として伊達郡を所領とし、姓を伊達と改め、奥
  州の覇者としての第一歩を踏み出すことになった。

   基治が戦死してから、基治の妻の乙和子と長男継信の妻 若桜、次男忠信の妻 楓とそ
  の子 義忠らが大鳥城の本丸を守っていたが、8月13日の瀬上の砦が破られると間も
  なく大鳥城も落城した。この地の伝説では、8月13日は名月の夜であったという。
   この戦いで戦死者の血潮で裏の赤川が赤色に変わり、それ以来、赤川の名がついた
  と伝えられている。

   基治が石那坂で戦死したのは、文治5年8月8日であるが、その後、親戚が遺体を望
  んで、これを信夫郡佐場野村医王寺に埋葬した。墓碑は現在もある。
   柴山景綱は岩代羽前に居住するある日、上飯坂村に行き、大鳥城趾に登った。西北に
  山をめぐらし、南河原を控えて、東霊山に対して固められた要害の地であった。空濠は
  今も存在し、当時の攻守の戦いの有様が目に浮かぶ。山を下り、庄司 基治の古墳を医王
  寺に弔い、当時の事を寺僧及び地域の人々に聞いた。「基治は大鳥城から出陣し、石那
  坂で戦う。利あらずしてそこで戦死した。そして遺骸は本寺に帰葬した」と皆は言った。

   その碑を見るに今も存在し、庄司 基治夫妻ならびに継信、忠信親子4人の碑を拝した。
  なかでも庄司 基治の碑をさわって見ると、墓石の角は丸く滑らかで、字体は本当はどう
  いう形か不明である。何故かと問うと「熱病を患っている者が角を削り、これを飲むと
  治ると伝えられてきた。そのため角が欠損した」と答えた。庄司 基治は当時善政をしき、
  人望があり後世にも敬愛されていた。

   景綱は、石那坂に佐藤庄司の戦死の場所を見出すため、明治18年1月29日に郡役
  人2〜3人を伴い、その古戦場を弔った。山道は羊腸のように曲がりくねり、険しい山
  道を登った。基治主従が勇敢に奮戦の状況を追想し、憂い嘆き涙がこぼれ、立ち去るに
  忍びず、東西を歩きまわったがわからなかった。夕陽のさす頃に草木の繁茂した樹林の
  中に墳墓に似た物が5〜6あるのを認めた。これを地区民に尋ねた。住民は昔よりここ
  にあったが、これが基治主従の18人の受難の遺骨を埋めた墓とは知らなかった。

   郡役人 大平鋤雲に2月1日より発掘させた。鋤雲帰って「土を掘って若干左右石を積
  み、長さ6尺、幅3尺底石を敷き、ふたは磨石をかぶせ、中に大小の古剣二振り及び錆
  びた鉄片が幾つか出た。朽ちてはいるが形がわかり、その昔を懐かしむことができる。
  これは基治主従が腰に下げたものであり、遺骨とともに埋めた所であろう」と報告した。
 
   景綱は基治父子の忠烈にますます深く感じて、諸書を参考にして「佐藤家伝」を著し、
  古剣及び錆びた鉄片の形を図にかいてこれを挿入した。郡吏、戸長に諮り、墓をもとの
  如くに埋め、上に碑を建立し、これを不朽に知らしめ伝えるため、 自ら現地に赴き、そ
  の状況を視察した。時に明治18年3月であった。そして佐藤主従の名誉を伝え、かつ
  村民の幸福を増進することを祈り、古剣等を当地の村社に納め、長く貴重な宝となした。
  



「石那坂死戦将士碑」への道順
     碑のある場所は、福島市平石字上原にある。
    一般市道南町浅川線(旧4号線)の伏拝のJR
    南福島駅に入る交差点を右折する。少し直進
    すると、一つ目の信号機のない交差点があり
    右側角に御食事処「鉢の木」の料理店がある。
    この交差点を左折して道に沿って進む。濁川
    の橋を渡り、森永乳業の工場脇を通り、さら
    に直進し、JR東北本線( 上り線 )のガード
    下を通り抜け左折すると三叉路に出る。右折
    し100m位行くと消防団のポンプ置場がある。
    ここで道が3本に分かれているが、真ん中の
    道の入口に「石那坂死戦将士碑登口」の標識
    がある。車から降りて、この小道のゆるい坂
    を登ると小道が二手に分かれるが、左手は農
    道で車の轍跡がある。
     送電線の鉄塔は右手のけもの道のような方
    登っていくと、左手に桜並木があり送電線の
    鉄塔の下に出る。鉄塔番号「蓬福線13(東北
    電力)」の標識がある。石碑は鉄塔の裏側にあ
    る。季節にもよるが、念のため熊よけの鈴、
    携帯ラジオ等を持参したほうがよい。


こちらを「蓬福線13」を目指し、右方向へ進みます
鉄塔の南西の脚から南方へ入っていきます









鉄塔「蓬福線13」


季節によっては樹木が生い茂り、わかりにくいです





 明治18年(1885)9月に当時の信夫郡長 柴山景綱が石那坂の戦で戦死した将兵を弔って
この地に碑を建てた。(碑高192cm)
 この碑は、JR東北本線(上り線)の平石トンネルの上の山にある。



後方にもうひとつ碑があります 


















「石那坂の合戦余録」
   1. 「福島市史」4 近代Ⅰ P.702 柴山郡長の史跡顕彰
      柴山はこれこそ文治5年8月8日の石那坂合戦によって戦死した佐藤庄司以下18人の
     墓と断じ、画家 伊那川秋嶽に出土品、墳址の実測図をまた岸村鵬山に『18士墳墓ノ図』
     を描かせ、また白河の佐藤健太郎に『佐藤庄司古刀記』を書かせて出土品を保存させた。
      後に「石那坂古戦場碑」を建立した。会津の人 佐治為秀が『佐藤庄司家伝』を著した。
     秋の実測図・出土品の現物を見ると、古墳時代末期8世紀初頭の横穴式石室をもった古
     墳であって、決して文治の役のものではない。考古学の研究が進んでいなかった時代でも
     あり、柴山らの史眼もこの程度であった。 

   2. 「吾妻鏡」 文治5年10月2日の条

      「囚人佐藤庄司・名取郡司・熊野別当等厚免を蒙りて各々本所に帰ると云々」とある。
      佐藤基治は石那坂の戦いで戦死したのではなく、捕らえられたが後に許されて本所飯坂
      に帰された。

   3. 「石那坂合戦の時と所」 すぎのめ第24号 福島大学名誉教授 小林清治

       石那坂は明らかに北に下る坂であるから、北に対する守備には強いが、南からの敵を
      防衛するには最も不利な地形である。すなわち、本来の防禦線は逆に南に傾斜した地形
      の地区でなければならない。近辺においてそのような適地は、関谷(関屋)福島大学
      キャンパス南辺、さらに県立福島医大キャンパス南辺にわたる浅川の流れの北岸にある
      段丘上にのみ見出すことができる。この地区こそが佐藤庄司軍の防禦線であり、生命線
      であったとみなされる。
       佐藤庄司軍の防禦線を浅川北岸段丘と考えてこそ、為宗兄弟の奇襲の意義は明確とな
      るのである。石那坂合戦とは、搦手で行われた奇襲攻撃で勝敗が決した結果において、
      呼ばれるに至った名称であったと考える。為宗兄弟はおそらく松川あたりから西へ水原
      あたりを経由し、土湯方面を迂回して佐原方面に至り、鳥渡りあるいは小川をへて佐藤
      庄司軍の後陣・搦手を急襲したのであろう。
       因みに「平石村誌」(1879)には、「佐藤基治、源頼朝の泰衡を討つ軍を扼え戦死
      せし処は今の吉治下町畑の地と云伝ふ」とある。地籍図によれば「吉治下」、「町
      端」は隣接し、その東辺を奥大道が通ったものと推測される。
       

      参考文献
       1. 「柴山景綱事歴」 史談会速記録
       2. 「全訳吾妻鏡」 2 新人物往来社
       3. 「福島市史」 1,4巻
       4. 「大鳥城記」 菅野円蔵編 飯坂町史跡保存会
       5. 「すぎのめ」 第24,28号 福島市杉妻地区史跡保存会
       6. 「ふくしま散歩」 小林金次郎著 ふくしま郷土文化研究会
         7.   「福島県合戦(福島、伊達、二本松、安達編)」 いき出版    






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