2015年10月31日土曜日

4. 伊達郡西根神社創立の事

  「西根堰」
     伊達郡の西部(阿武隈川の左岸)一帯をもと西根郷と言っていた。半田山を背負い
    水利の便が悪かった。江戸時代初期、上杉氏は関ヶ原合戦の翌、 慶長6年(1601)
    には、会津120万石から米沢30万石に減封となった。しかし、家臣団を離散させ
    ずにそのまま召抱えたので藩内経済を賄う米作、その根源となる水田開発と用水開削
    を急務として奨励した。上杉家が領した西根郷のまとめ役の佐藤新右衛門家忠は、摺
    上川の水を引き、一つの溝渠を開削しようと時の米沢総奉公にその必要を願い出た。
    藩の評議を経て、元和4年3月(1618)標高の低い水路の下堰から開削をはじめた。
    現在の水の取入口は、飯坂温泉の十綱橋の下にある。同年12月、9ヶ月間で飯坂か
    ら湯野、東湯野、桑折町松原、伊達崎をへて阿武隈川に注ぐ約13kmの西根下堰が
    完成し、受益面積659㌶の水田が開けた。村民は大いに役立ち喜んだ。



    
     しかし、佐藤新右衛門は下堰だけでは西根郷の四分の一にすぎず、その利益は全郷村に
    浴さなかったので満足はしていなかった。穴原から新しく用水堰をつくる事を計画した。
    佐藤新右衛門と福島奉行 古河善兵衛は、藩主 上杉定勝に願い出たが、工事の困難性と経
        費の支出の無理を理由に不許可となった。しかしなお、古河善兵衛は佐藤新右衛門からの
    支援もあって再度の申請を行った。このため藩は財政上の援助をしないという条件つきで
    許可をした。
     福島奉行 古河善兵衛を普請奉行とし、佐藤新右衛門を添役として穴原に新堰掘り割りを
    寛永2年より着手した。工事の最大難所は、上堰の取入口で穴原に近い岩山が堅くて、ど
    うしても溝を掘ることが出来ず、岩山を削ってそこに樋をかける方法が用いられた。所に
    よってはトンネルを掘った。
     
     測量にあたっては、上堰開削想定の地に提灯をともし立たせておいて、はるかに信夫山
    から見て高低をはかったとの提灯測量の伝説がある。また、トンネルを掘る工事人夫を励
    ますために毎日の賃金支払いにはけご(竹ざるの胴体がくびれていて、こぶしつくるとや
    っと出る)の中に銭を入れ、これをつかみ取らせるという方法を取り入れたという伝承も
    ある。
     難工事にもかかわらず、用水路が日が当たらない場所を通るときは傾斜を急にして流れ
    を速くし、逆に日当りのよいところは緩やかに流して、水温を高める工夫もされている。
     上堰(全長約30km、受益面積659㌶)は、寛永10年(1633)春3月に竣工した。
    9年かかった難工事は完成した。これにより、全郷旱魃の憂いなく、その恵みを感謝した。





     古河善兵衛は、藩の財政的援助なしに工事を行い、私財を投げうっただけでは都合がつ
    かず、藩の年貢米に手を付け工事費につぎこんだ。年貢米の操作が米沢に察知されないこ
    とを願うが、それは無理なことで、知られたら責めを負って切腹せざるを得ないと一大決
    意をもっていた。
     上堰が完成した後、寛永14年(1637)12月14日、藩の呼び出しに応じて、米
    沢に向かう途中、庭坂「李平」に来た時、馬上で覚悟の切腹をして相果てた。信達地方の
    開拓の大恩人は享年61歳であった。
     また、共にこの堰を開削した佐藤新右衛門は、大鳥城主 佐藤基治18代の孫といわれ、
    寛永14年(1637)9月14日、病にて65歳で没した。桑折町大安寺に世に誇ること
        もなく静かに眠っている。
     景綱は遺跡を見聞し、大いに感激し、両氏のような人は本当に万世の鏡と言うべきであ
    り、神社に祀るべきと各村の戸長に諮り村民に諭させた。村民は喜び浄財を拠出した。

     西根神社御由緒によれば、「明治18年、伊達・信夫郡長 柴山景綱は『両偉人の功績
    誠に大なるものなり、須らく神社を創建し偉霊を祭神と仰ぎ、郷民をして一層敬虔の誠を
    捧ぐるものなり』と進言し、本格的な神社造営が計画された。西根郷33か村4,231人の
    発願にて官許を得、『信達総鎮守・郷社西根神社と尊崇し、以て定時の祭典を行い、偉業
    を不朽に伝ふ』として明治20年1月、お二人の偉霊を地下深く埋め豪壮なる社殿が建立
    された」とある。




     明治18年8月に福島県令宛に提出された発願者総代(岩代国伊達郡桑折村 遠藤卯兵衛
    以下11名の連署)の『西根神社創立願書』によれば、「あたかもちょうど良い機会に前
    郡長 柴山景綱氏(当時 信夫郡長専任となる)が二氏(古河善兵衛、佐藤新右衛門)の事
    跡を参考にするために意見を求められた際に、二氏の当時を振り返って見ると、敬慕の念
    がますます高まり胸に迫ってきて、上・下堰の水を利用する村民にとって年来の望みがこ
    こに達成することができ、幸いはこれにまさるものはありません。よってここに20有余
    村の村民が心をこめて、力を合わせて上・下堰の水源である湯野村に祠を建て、二氏の霊
    を地下に慰め、郷社西根神社として尊崇し、以て永く定時の祭典を挙行し、一つにはその
    偉績を不朽に伝へ、一つにはその美徳に千年にわたって報いるものである。これは我々村
    民の年来の宿願である。神社の維持にかかる経費は上・下堰の村民の出費をこれに当てる。
    村民の心情を察し速やかにお聞きとどけ下されたく、別紙書類を添えてお願い申し上げま     す」とある。


   西根堰余録
   1. 温泉溝渠碑(寛永の碑)



        西根上堰完成の翌年に、清水喜兵衛、佐藤新右衛門、古河多兵衛ら11名の
       連名による古河善兵衛の頌徳碑が建立された。この碑は、もと上堰の取入口の
       穴原橋の側に建てられたものである。佐藤新右衛門は寛永14年9月14日病
       死とされたが、「郡代 古河善兵衛が、新右衛門に毒を盛ったのだ」と、真事し
       やかに囁かれた。西根の農民は新右衛門の死を悲しみ、憤り、古河善兵衛が建
       てた温泉溝渠碑を二つに折って打ち捨ててしまった。現在、西根神社に建っ
       ている石碑は、大正15年、福島中学校(現福島高等学校)堀江繁太郎教諭と湯野
       村の岸倍家氏の懸命の捜索によって、穴原の農家の土留の石垣に使用されて
       いた寛永の碑が発見され、西根神社の境内に移され二つに折られていた碑をつ
       なぎ合わせたのである。碑は、幅約1m、高さ1.75m、厚さ30cmである。

     2. <『いらざる事に候へども申残す』

        昭和59年10月8日の福島民友新聞に―「西根堰開削の功労者」古河善兵
       衛自刃は誤り!? 定説覆す古文書発見ーが大きく発表された。世間に与えた影
       響が大きかったので、同じ民友新聞の文化欄(11月22日付)に桑折町町史
       編さん室主任 田島昇氏が「知られなかった真実」という文章を寄せていた。
        町史編さんのため町内の古文書を集めていた、田島昇編さん室主任らの調査
       で桑折町北町、栗花マサさんが所有していた「口上之覚」という古文書であっ
       た。伊達家と上杉家が慶長5年(1600)10月6日、 信達地方を舞台に戦っ
       た松川の合戦での戦記で、この本文は佐藤新右衛門の手柄を上杉家に提出する
       ために新右衛門の弟 次兵衛が明暦3年(1657)4月23日に書いたものの写
       しである。そのあとに「あとがき」として「いらざる事に候へども…」と隠さ
       れた真実が述べられていた。この古文書は佐藤家出200余年秘蔵され、その
       後、栗花儀兵衛氏に引き継がれたが、栗花氏の遺志が尊重され公表がひかえら
       れてきた。
        
        上堰が完成してまもなく、寛永14年(1637)相馬藩と上杉藩の境界線を
       めぐっていざこざがあった。霊山のあたりの玉野村をめぐる境論(境争い)で
       あった。堰をつくるまでは一緒に苦労して完成させたのに、この境界問題で柔
       軟姿勢の善兵衛と強硬姿勢の新右衛門とが、その政策をめぐって意見が対立し
       た。上杉藩は関ヶ原合戦に際し西軍(豊臣家)についたため、戦後処理で120
       万石から30万石に封され、徳川家の目はいつも光っていて、いま相馬藩と
       争いがあると思われては、藩の存亡にかかわる危機を招きかねなかった。善兵
       衛は慎重を期し、高度の政治判断から譲歩を重ねた。境界部分を両藩入会地と
       する、かなり譲歩した妥協案を取りまとめた。ところが藩内で、「古河善兵衛
       は相馬藩のいいなりになっている。あのように弱腰なのは相馬藩の泉藤右衛門
       と親交が深いからだ。ひょっとすると相馬藩からいくらかもらっているのでは
       ないか」という噂まで立つようになり、「藩内混乱」という別の危機をもたら
       すほどのものになった。善兵衛としては、なんとしても他藩にもれぬよう事を
       処理しなければならなかった。
        「あとがき」によると、寛永14年9月25日、善兵衛は自分の屋敷で評議
       を行ない、境論交渉に常に立ち会った新右衛門にも責任があるとされ、服毒に
       よる死がすすめられた。そして、毒死を拒んだ新右衛門が善兵衛を切り、新右
       衛門もその場で切られた。これが藩内沈静の手段であった。
        このことが徳川家に知られたらお家断絶になりかねない。上杉家の重臣たち
       にとっては、相馬藩との境界線どころの騒ぎではなかった。境界線に関する藩
       内の混乱はおさまったが、それよりも二人の壮絶で悲愴な死は藩にとってあっ
       てはならない出来事で、何としてでも秘密にしなければならなかった。そこで
       「あとがき」によると、内談によって「病死」と処理されたとある。
        新右衛門の弟 次兵衛は、兄の死が単なる病死でもなければ事故でもなく、藩
       に仕える者がとらねばならなかった唯一の選択であったことを子孫にだけ「あ
       とがき」として書き残し、藩への忠節を説いたのである。佐藤家の子孫は、こ
       の老人の戒めを300年にわたって守り抜き、上杉家はもとより古河善兵衛へ
       の敬慕の念をいだき続けるとともに「あとがき」を秘蔵した。





     3.  桑折町史 5 『31 明暦2年4月 口上之覚』の「解説」
        「 口上之覚」は佐藤次兵衛が上杉藩へ提出した佐藤家の功名書きの副本で
        あり、末尾に 佐藤新右衛門の最期についての覚書が付け加えられている。
             佐藤新右衛門は慶長5年の合戦(松川の合戦)で活躍し、そののち伊達郡
        西根郷の惣肝煎として民政につくした。とりわけ、地方の水田を今も潤わせ
        ている西根堰の開削に大きな功績をあげ、奉行であった古河善兵衛とともに
        西根神社に祀られた。このため、本号末尾の古河と新右衛門の最期は神社に
        祀られた二人のものとしてふさわしくないように判断され、長く所蔵者によ
        って秘蔵された。「桑折町史5」に収録できたのは所蔵者(桑折町北町 栗花
        マキ氏)のご好意と研究の進展にともなって、本号に示された諸事実が二人
        の名誉を傷つけるものでないことが確認できたからである。  






     4. 「西根堰」選奨土木遺産に認定 福島民報新聞 平成22年10月19
         土木構造の文化的価値を再評価し、保存や活用を推進する社団法人土木学
        会の「選奨土木遺産」に県北地方を流れる農業用水路「西根堰」が認定され
        た。西根堰は完成から約390年たった今も「現役」であり、流域の随所で
        とうとうと流れるかんがい用水を見ることができ、豊かな農地を育んでいる。
         西根堰は福島市飯坂町湯野の摺上川から取水し、桑折町に至る下堰(12km)
        と、桑折町、国見町を経て伊達市梁川町に至る上堰(26km)からなるかん
        い用水路である。特に上堰は硬い岩を削り、横穴を開け、わずかなこう配で造
        られてるなど高い技術が評価された。近世初頭の農業技術を示し、小中学生
        の学習や地域おこしなどに活用される貴重な土木施設群とされた。                  
                

           参考文献
            1. 「柴山景綱事歴」 史談会速記録
            2. 「福島市史」4  近代
            3. 「西根神社略誌」 西根神社
            4. 「西根堰物語」  稲村彦衛著
            5. 『「ゆの村」祖先の足跡をさがして』 秋山政一著
            6. 「上杉家臣 古河善兵衛のこと」     太田隆夫著
            7. 「半沢光夫の福島発の歴史地図」   半沢光夫著
            8.   福島民友新聞  昭和59年10月8日,11月22日
            9. 「桑折町史」 5,7
           10. 「霊山町史」 2
           11.   福島民報新聞  平成22年10月19日  
 

 




 

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